2005. 10. 9.の説教より

「 新しい模範 」
ヨハネによる福音書 13章31−35節

 今日のこのところで、何と言いましても、私たちの注意を引くのは、34節・35節のところで、イエス様が「新しい掟」として語っていることとなるのではないでしょうか。イエス様は、そのところで、このように語っておられるのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とであります。このイエス様の言葉に異議を唱える人はいないのではないでしょうか。たとえ、信仰を持っておられない方であったとしてもです。聞くところによれば、インドのカルカッタにおいて、貧しく死んで行く人たちのためにその生涯を献げて働かれたマザー・テレサも、この聖書の言葉を自身の生き方の指針としてされていたということです。また、そんなこともあって、来日された際にも、この聖書の言葉を色紙に書いて行かれ、その色紙が広島の原爆資料館の展示品の一つとして展示されているということです。つまり、「互いに愛し合いましょう。そうすれば、このような悲惨なことは起こりません。」という意味合いで、マザー・テレサの色紙が展示されているというわけです。確かに、「互いに愛し合う」ことができれば、戦争も、争いも起こらないでしょうし、原爆が使われるような悲惨な事態にはならないのではないかと思われますが、はたして、私たちが「互いに愛し合う」ことができるのだろうかということを考えてみますとき、たいへん心もとない思いがするわけです。いくらそのように言われたとしても、また、そのことの大切さがわかっていたとしても、なかなかそのようにはできない、そのようにはなれない現実があるからです。
 私たちは物事の是非よりも感情的な事柄によって物事を考えるところがありますし、自分の考え、自分の価値観を中心に考えて行動するところがあるため、どうしても、他の人との間に摩擦を生じてしまう、場合によっては気づかないうちに他の人を傷つけてしまっているのが、私たちの現実だからです。そのことは、言われるまでもなく、誰でもわかっているのではないでしょうか。ただ、多くの場合、そのことで多少は悩むことはあっても、そのことと向かい合いつつ、希望をもって、多少なりとも、そうした現実を克服しようと努めることまでは考えないのではないかと思われるのです。思うのですが、信仰を持って生きるということは、神様が共にあってくださることを信じて、また、そのことに支えられ、励まされて、私たち自身の現実と向かい合いつつ、できるところのことをやって、問題があるならばそれを克服しようと努めて行くことではないかと思うのです。どういう取り組みを続けて行くかということこそがです。
 ところで、この新共同訳聖書では、イエス様の「互いに愛し合いなさい。」との言葉が、「新しい掟」として語られていますが、本来の意味合いということから言いますと、従来の口語訳聖書の「あたらしいいましめ」としたほうが相応しいのではないかと考えられるのです。どうしてかと言いますと、「掟」といいますのは、「命令」であるとか、「指図」であるとかの強くなってしまうのに対して、「いましめ」と言いますのは、「諭す」「言い聞かせて納得させる、教え導く」といった意味合いとなりますので、そのほうがイエス様が語られた言葉としては、どう考えても相応しいからです。また、実際、イエス様の「新しいいましめ」は、モーセの十戒がそうでありましたように、人の行動を制限することがその中心であったのに対して、「互いに愛し合いなさい。」とのイエス様の言葉において見ることができますように、制限ではなく、新たな人との関わりをつくり上げて行くために、努めて行くようなものだからです。そのようにできなければ駄目だとするようなものではないわけです。また、そうしたところに、「新しいいましめ」の「新しさ」があるわけです。
 先ほどのマザー・テレサの言葉ですが、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という言葉と共に、このような言葉が添えられていたということです。「広島に多大の苦痛をもたらした恐るべき罪悪が、二度と起こらないように互いに祈り、愛と祈りの行為が平和の行為であることを忘れないようにしましょう。」とです。この添えられていた言葉から、お気づきになる方もおられるのではないかと思われるのですが、この添えられていた言葉には足りないものがあるわけです。実際、マザー・テレサ自身が記した原文のほうには、「神様が私たち一人ひとりを愛されたように、私たちも互いに愛し合いましょう。」との言葉がちゃんと入っていたのですが、その言葉を訳さないで、「広島に多大の苦痛をもたらした恐るべき罪悪が、二度と起こらないように互いに祈り、愛と祈りの行為が平和の行為であることを忘れないようにしましょう。」と訳されていたというわけです。訳された方からすれば、「神様が私たち一人ひとりを愛されたように、私たちも互いに愛し合いましょう。」ということなどどうでも良かったわけです。また、そのような考えるのが、大多数の人たちの考え方となるのではないでしょうか。「神様が私たち一人ひとりを愛された」ということなど、どうでも良いというふうにです。
 しかし、「互いに愛し合いましょう」といくら言われても、また、そのようにしようと思ったとしても、そのようにはなかなかできないのが、私たちの現実であることは言うまでもないことなわけです。単なるお題目にしかならないのではないでしょうか。やはり、私たち自身を内側から変えてくれるようなものがなければ、「互いに愛し合いましょう」と言われても、そのような方向に向くことさえないのではないかと思われるのです。私たちのそうしようと思うところのものを支えるものが、そうしようとすることができるようにしてくれるものがです。行動原理と言っても良いようなものがです。少なくとも、マザー・テレサにとっては、「神様が私たち一人ひとりを愛された」ということが、マザー・テレサをして、貧しく死んで行く人たちのために、その生涯を献げることにつながって行ったわけです。まさに、方向を決め、突き動かす原動力となっていたわけです。しかし、それが、受け止められないというよりは、あってもなくても良いものとなっているのはなぜかと言えば、私たち一人ひとりが神様から愛されなければどうしようもない存在だということが分かってはいないからではないかと思われるのです。別な言い方をすれば、頑張ればなんとかなる程度に自分のことを考えてはいても、頑張ればどうにかなるほどのものではないということが分かってはいないからではないかということが考えられるわけです。さらに言いますならば、私たち自身の罪深さが分かってはいないということです。はたして、私たちは、自分のことをどのように考えているのでしょうか。頑張ればなんとかなるというふうに考えているのでしょうか。しかし、聖書は、神様が、私たち一人ひとりを愛されていなければ、そのために、イエス様が十字架にかかってくださらなければ、私たちが頑張った程度ではどうしようもない存在であることを語っているわけです。しかし、なかなかそのようには考えることができないがために、私たちの信仰は多くの方々にとってはなかなか受け入れ難いものとなっているのではないかと思われるのです。そのため、よくキリスト教の話は難しくて分かりにくいということも言われるわけです。また、もっと実際的なことを、日常的なことを聞くことができればという方も出てくることになるわけです。そのあたりに、キリスト教がこの日本では振るわない要因があるのかもしれません。そういう意味では、頑張った程度では、どうしようもないのが私たちの現実であることに、言い方を変えれば、自分でもどうすることもできないところと、罪深いとしか言いようのないところと、もっと向かい合ってみることが必要なのかもしれません。
 実際、こういうことがあるのではないでしょうか。そのような態度はとりたくないと思いながらも、願っているのとは違うどころか、正反対の態度をとってしまうことがです。また、思っているのとは正反対のことを言ってしまうことがあるのではないでしょうか。そういう自分の現実に、おそらくは、誰でも、気づいているのではないかと思われるのですが、できるだけそういう自分の現実を見ないようにしているところがあるのではないかと思われるのです。そんなことに目を向けていたならば、あまりにも情けない現実に落ち込まざるを得なくなってしまうからです。しかし、神様は、そういう現実を引きずるようにしてしか生きることができない私たちを、そのあるがままで愛され、そのためにイエス様を十字架にかけて身代わりとされ、私たちを罪深いところなどないものとして受け入れてくださるというのが、聖書が私たちに語っているところの中心的なメッセージとなっているわけです。そのこのに励まされることなくして、支えられることなくして、「互いに愛し合う」ような思いなど、私たちにとって持ち得ないこととなるのではないかと思われるのです。